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「一人で生きられない」のは罪? 祖父の葬儀で見かけた白杖の人たち 頼ること恥じなかった私のヒーロー(withnews) - Yahoo!ニュース

上京資金作り 支えてくれたのは村の人々

そのヒーローの名は若狭恒雄。私の祖父だ。祖父は1931年、福岡市近郊にあった村で生まれた。幼い頃は農家になる夢を持つ少年だった。 戦後すぐの1947年頃のこと。当時15、16歳の祖父は、友達と馬に乗って遊んでいたところ、振り落とされて頭を打ってしまった。打ちどころが悪く、徐々に片目から視力が悪くなっていった。手術も受けたものの、後に両目の視力を失った。 18歳で盲学校に入学し、点字や鍼(はり)治療のやり方を教わった。ある日、学校で点字の本を読んでいるとき、一つの記事が気になった。そこには「東京・世田谷にある鍼の研究所では、目の不自由な人たちが寮で生活しながら高度な鍼を学んでいる」と記されていた。 祖父はびびっときた。「自分も東京で高度な鍼を学びたい」。家に帰り、研究所に行きたいと父親に話した。 でもこれは65年ほど前の話。東京に行くのも今みたいに簡単ではない。「自分で上京資金として3万円貯めたら行ってよかよ」と父親。当時でいえば高額な金額に祖父は驚きながらも、盲学校で覚えた鍼やマッサージで資金を稼ぐ決心をした。 村の人々に声をかけてまわり、実家の離れを使って鍼やマッサージをした。気づけば、たくさんの人が力になってくれた。せっせとお金を貯めていき、目標額に到達。1955年に研究所へ入所することになった。 弁当数個を手に一人で汽車に乗り、1日以上かけて東京へ。荷物を置くときは付近の人が手を貸してくれたり、トイレにも連れて行ってもらったりと、多くの人の力を借りながらの旅路だった。 「自分にできることは鍼しかない。とことん腕を磨こう」と、必死になって学んだ。だんだんと腕をあげていき、著名人に治療をしたこともあった。 生活は、目が不自由な同じ志の仲間といつも一緒。仲間と新宿に食事に繰り出したり、観光したり、青春の1ページを過ごした。訓練のために仲間同士で鍼をしあうことも多く、その過程で長野県出身の全盲の女性と仲良くなり、結婚するに至った。 東京で3年間学んだ後、福岡市で鍼治療院を開業した。26歳の時だった。 まず、上京資金作りのときに協力してくれた人たちが来てくれた。その後、だんだんと口コミが広がっていき、予約でいっぱいになるようになった。 夫婦で治療院を切り盛りしながら、一人娘も育て上げた。そして、その娘が結婚し、私が生まれた。

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August 19, 2020 at 05:02AM
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